繰り返していないととても
怖いの
075:幾度となく繰り返す、壊れたからくり人形のように
ざわり、とした喬木の枝葉の擦れ合う音で目が覚めた。遠くでトントントンと調子よく包丁を使う音がする。寝ぼけ眼のまま葵は布団からはい出すと障子を開けた。雨戸はすでに開けられていて朝日が縁側へさんさんと降り注いでいた。金雀枝や山査子の山吹が目を惹く。葛が手を入れている庭は葛の好きな花が咲く。最近は苗も種も肥料も一年中出回っているから季節外れの花盛りも珍しくない。奥の間にある床の間には葛の生けた花が咲いている。女じゃあるまいし、と言った葵に葛はお前のヴァイオリンよりましだときっぱり言って退けた。それでも葵は葛の生けた花は好きだ。なんだか凛として綺麗だなァと思う。
二人は紆余曲折を経て知り合い、そのきっかけであった特殊機関が事実上崩壊し消滅した今でも二人暮らしを続けている。二人がこの生活に落ちつくまでには間があって、最後の仕事だと思って葵は一時生死不明に陥った。それでも葛はこの大陸を捨てずに極東へも帰らず軍属にも帰属せず葵を待っていてくれた。大陸では珍しい純日本風の家屋には客間や仏間のほかにもいくつも部屋がある。葛の実家ってこんなんだったんかな、と葵は折々に思う。表札まで葛は掲げていてしかも墨の筆だ。その隣へ葵も墨で書いたが貧相に見えるだけだった。
着替えや洗面を終えるころには朝食の膳が整っていた。しかも葛もきちんと着替えた格好で葵を待っていた。寝ぼけつつ聞いた包丁の音はこれかと葵は目を瞬かせた。葛は横目で葵の姿を認めたが何も言わなかった。葵は寝坊を詫びてから、葛ちゃん今日こんな早くから仕事、と問うた。すると葛は一人分も二人分も同じ手間だから一緒に済ませただけだと答える。そのまま行儀よくいただきますと箸を取る。二人暮らしが長引くにつれて二人の食膳は和食に変わりつつあった。写真館を営んでいた頃は手早く出来る大陸の料理が多かったし近所の店へのお愛想として出前も頻繁に取っていた。だからこういう和食を食べるのが葵は好きだ。葛も葵が好むならと和食を作ってくれる。
葵は時計と睨めっこしたまま食事をかきこむと慌ただしく出かけようとする。これだけ腹にはいれば昼まではゆうに保つだろう。その首根っこを葛が掴んだ。シャツの襟が喰い込んで葵がぐえっと変な声を出す。
「ちょっと待て」
葛は終わりかけの食事の箸を置いて席を立つ。葵が待っていると葛は小さな包みを葵に差し出した。
「なに」
「弁当だ。買い食いばかりでは食費もままならんからな。俺達に融資する奇特な輩はもういないから節制しなくてはならん」
「弁当なら現場でも売ってる」
「出来合いの惣菜を買うと高い。良いから持っていけ。不味かったら捨てろ」
葛が葵に無理矢理弁当を持たせて玄関から蹴りだすように行ってらっしゃいと言った。その頬や耳が少し紅いことに気付いた葵がにやにやしながら行ってきますと駆けだしていく。葵は人足仲間に冷やかされながら愛妻弁当だと自慢げに弁当を消費した。
嬉しかった。葛が葵のために弁当を作ってくれること。肉体労働で埃まみれの葵の服を洗ってくれたり、時折交わす交歓であったり、葛が葵のためにしてくれることはたくさんあって、葵は幸せの絶頂だった。誰かにつくされるって気分がいいな、と思う。葛は文句や注意はしても葵を『嫌いだ』とは言わない。二人暮らしを解消する気もないようで、葵は今のところ何をしても追い出される気配はない。だから葵は一つミスをした。葵は葵の幸せでいっぱいで葛の内側を窺うことを忘れていたのだ。
「葵、弁当だ」
それは突然の発露だった。葵はきょとんとして昼食の膳が整うのを待っていた。今日は葵の人足仕事がないことは前もって葛に言ってある筈だ。これは暗に家を空けろと言われているのだろうかと勘繰りながら葵は指先でばつが悪そうに頬を掻いた。
「葛ちゃん、オレ今日、非番だよ」
葛の方も面食らったような顔をする。二人の間でぶら下がった弁当が置き所なく揺れている。葵はともかくもそれを受け取るとその場で開いた。
「だから今日のオレのお昼ご飯はこれ」
葛は力が抜けたように茫然と箸さえ取らず食膳さえ用意せずに葵が弁当を食べるのを見ていた。その黒曜石の双眸にわずかな濁りが見えて燐光が鈍ったような気がした。葛らしくない。写真館を営んでいた頃は葵の出張予定まで覚えていた上に現像写真の保管期間さえ同時に管理していた男だ。前もって言ってある葵の予定を覚えられないわけないと思うけどな、と不可思議な想いに囚われながら食べた弁当はやはり美味かった。
「葵、弁当だ」
何度目か。葛は毎日のように弁当を作る。葵は困惑した。葛は見たところまともだし服装や行動に奇異な点は見られない。請け負った賞状書きや公式文書の清書などの腕も鈍っていない。ただ葛は取り憑かれたように毎日、葵の弁当を作った。葵は要らぬと言って捨てるのも癪だし気が進まぬから頂戴する。それが行動を増長させるのか最近葛は曜日や日程に関係なく毎日、葵に弁当をよこす。
「ねぇ葛ちゃん、今日は外でご飯しない? ちょうどオレも非番だし、葛ちゃんだって仕事がひと段落したって言ってたじゃない」
びくんと、葛の体が目に見えて強張った。落としかけた弁当は無事に葵は受け止める。
「外に行こう。この辺りは静かだから、庭でもいい。ピクニックって知ってる? 丘なんかに登ったり遠くへ出かけたりしてそこでお弁当食べるんだよ。葛ちゃんのお弁当はオレが作るよ」
言うなり葵は台所へ駆け込んだ。きちんと洗いものは水切りへ伏せられ、調理の片付けも済んでいる。葵は何とか炊き残りの飯で握り飯をつくると乱暴に弁当箱へ押しこんだ。
「ほら、こっち」
葵は葛の作った弁当と己の握り飯を詰めた包みとを持って縁側へ立った。葛は茫然と葵に引きずられるままだ。葵は弁当を縁側へ置くと葛を引っ張って芝の上へ倒れ込んだ。二人してどさりと体を投げ出す。草いきれが噎せるようにあたりにたち込めて夜露の名残がきらきら散った。
「葵、服が汚れる」
「洗えばいいんだよ。葛ちゃん、最近おかしいよ。何かあった?」
訊きながら葵は知ってる。葛が毀れかけていることを。原因は判らない。葵にあるのかもしれないし、もしかしたらあの日の決断が葛を苦しめているのかもしれない。あの日、あの飛行機の中で、葵は葛に葵を見捨てさせた。葵はその判断を間違えたとは思っていない。だが間違いでなければ良いかと言えばそうとは限らないのが現状だ。正解や正当や正論が人を傷つけない理由はない。
「あの日のことが、忘れられない?」
葛がごろりと仰向けになった。白いシャツに草の汚れが付いているのが見える。切れあがった眦から伝う涙は頬ではなく真横に流れて形の好い耳の窪みへ溜まっていく。
「…葵、俺はお前を裏切った。高千穂の元へ行った俺を、それでも信じて最後まで一緒にいてくれた。そのお前を、俺は見捨てたんだ。俺もあの場に残るべきだった」
葵は深く息を吸って嘆息した。あぁ、やっぱり。この伊波葛と言う男はどこまでも三好葵に誠実だった。
「高千穂が根源のあの事態の収拾を俺はお前に押しつけた。何をしても償えるとは思えない。それが俺の、背負うべき業であると――」
葛の白さが蒼白くなっていく。白皙の美貌は蝋人形のそれになりかけていた。棲みきった黒髪と黒曜石の双眸。燐光を放つように何もかも呑みこむ闇のような漆黒が濁りだす。葵は体を転がすようにして葛にのしかかるとばちんと両頬を挟むようにたたいた。
「ばーか」
葵の言葉に葛がほぇんとしたような妙に弛んだ表情を見せた。予想外の葵の反応に困惑しているのだろう弛みが見える。
「かずらちゃんのばーかばーかばーか、ぶわぁーか」
「…言わせておけばッ」
はたかれた赤らんだ頬のまま葛の手が伸びて葵の頬をつねった。葵は痛みを堪えながらニィいと笑う。
「ほら、ようやくゆるんだ。葛ちゃんが気に病むことなんて何にもないんだよ? あの判断はオレがしたんだ。オレの責任なんだよ。葛ちゃんが気に病むなんて、人の荷物奪って苦しんでるだけだよ、馬鹿みたい」
葛の手がぱたりと落ちる。
葛が葵の弁当を作り続けたのは己が出来る全てで葵につくしてやりたかったからだ。あの時見捨てた罪をこんな姑息な手段で補っているという自覚と行動。その葛藤が葵には目に見えるようだった。葛はそれが自己満足であり自分勝手な感情のやり過ごしだと判っているから徐々に壊れ始めていたのだ。だから毎日のように繰り返した。葵のために作る弁当。共に暮らし閨さえ共にする相手に出来るせめてもの尽くしとして、葛は葵が仕事場へ持参する弁当を作り続けた。葵が非番でも。二人とも仕事がなくても。ただただ壊れたように繰り返した。そうしている間はきっと痛みが和らいでいたのだろう。葛は葵を見捨てたことをまだ気に病んでいる。
のしかかったまま葵は脚を絡めて唇に吸いついた。白皙の美貌の中で熟れた果実のように紅いそれ。口紅棒もないのに葛の唇はいつも紅い。そこも魅力の一つだよ、と葵は心中で言いながら何度も何度も口付けた。葛はされるままで時折恐怖が不規則に痙攣する。泣くのを堪えている。
「見捨てたようにしちゃってごめんね。苦しかったよね。辛かったよね。でもね、オレを見捨てて葛が辛かったり苦しかったりしてくれて、オレはすごく嬉しいよ。だってそれは葛がオレを大事に思ってくれてるってことだから。だからごめんね、ごめんね、でもうれしい」
葛の潤みきった双眸が葵を映す。揺らいだ湖面に映る鏡像を眺めるように葵の肉桂色の双眸は葛を映した。戦慄いて震えた唇を葛がきつく噛んだ。犬歯が喰い込んで紅い筋が垂れていく。きつく噛まれた唇からする鉄の匂いに葵はあふれた血を舐めすすった。
「いろんなことしよう? 葛ちゃんが作ったお弁当持っていろんな場所へ行こう。この大陸は広いしオレ達には時間もある。世情は不穏だけどだからこそ今のうちに平和を味わっておこうよ」
あそこがいいかなそこがいいかな、指折り数える葵の頬を葛の白い指が撫でた。
「え、なに、葛ちゃ」
「…――泣くな」
ほろほろと葵の頬を雫が落ちていた。葵の自覚にさえ上らぬ痛みだった。それはきっと好きな人をここまで狂わせてしまった己の業。毀れてくれたのは好意の裏返しだと思えば嬉しい。だが壊れてしまったこと自体を思えば。それは、オレの、所為。
「出かけるなら付き合う…弁当が必要ならまた作る、だから」
泣くな
「…な…ッだよ、葛ちゃんこそ、泣いてるじゃ……ッふ…ー…」
ヒクヒクと横隔膜が痙攣する。肺が広がりきったかと思えは驚くほど収縮する。葵は葛にのしかかったまま泣いた。洟まで垂れてくる。もう威厳や自尊心など疾うにどこかへ飛んでいる。葵だって葛に見せてきたのは格好いい姿ばかりではない。醜態も見せてきた。それだからこそかも知れなかった。葛の前で葵は素直になれた。葛が毀れてしまったことが哀しい、辛い、でもうれしい。そうさせてしまった己が憎い、もどかしい、苦しい。
葛と二人してもつれ合いながら二人で泣いた。時間はいつの間には過ぎていて庭木の垣根越しに家路を急ぐ足音や人々の行き交いが感じ取れた。密に茂った垣根は立派に目隠しの役目を果たす。灌木の茂りに蔦が入りこんでは根を持ち上げてさらに絡む。天然の眼隠しに覆われた日本風の家屋など、商売に忙しい大陸の住人は気にしない。
葵の溢れてくる涙を葛の白い指先が拭う。ペンや筆を執ることの多い指先は爪まで手入れがされていて綺麗だ。桜色の爪は鋭利な刃にならぬよう切られている。その指先が葵の涙を拭う。
「泣くな」
「葛ちゃんごめんね、ごめんね。本当にごめん。でも、嬉しいよ…」
葵は葛にしがみついて泣いた。声を殺して泣く葵をなだめるように背をさすりながら葛の黒曜石に燐光が戻りつつある。怜悧で整った容貌が毀れた日々を抱えたまま傷をさらしたまますべてを塞いでしまった。葵は泣きながら葛はきっとまた明日も弁当を作るんだろうと思った。それが毀れてしまった葛の成すべきことであるから。そして葵はその弁当を残さず食べるのだ。それでも葵には予感があった。葛はきっともう、不必要な弁当を作らない。葛の涙を拭い己の涙を拭われながら葵は思った。
「葛ちゃん、オレ、明日非番だからね」
「判った」
葵は笑いながら泣いた。葛の大事な芯を歪ませてしまった業。そのためならいくらでも付き合ってやる。
たとえそれが一生続いても。
葵はそのくらいには葛が好きだと、思っているから。
《了》